平成24年7月2日、午前11時13分
母、永眠。
日本人の2人に1人がかかるといわれる病気、がん。
当初、「余命半年から1年」と医師から告げられたが、薬が母の身体に合ったこともあり、がん発覚から約4年生存することができた。ちなみに余命宣告については、当時母には知らせなかった。
亡くなる直前までほとんど医療麻薬を望まなかった。身体が楽になることより、その薬が原因で意識がもうろうとして何もかもが分からなくなる状態になることを嫌ったから。
まさに、父の最期がそれだった。
父は、平成8年に49歳の若さで他界。同じくがん(大腸)。
闘病は、約半年ほど。
当時は、今のように医療は発達しておらず、ホスピスも十分な施設とはいえなかった。高校1年生であった私は、あまり多くを記憶していないが、当時19歳だった4つ年上の兄は、その時の記憶が鮮明に残っているという。
筆不精(ふでぶしょう)であったはずの母は、病気の進行に伴い、手の中におさまる大きさのメモ帳に食事、排便、家事、そして、その日にあったことを簡単に記録するようになっていた。
「生き抜きたい」という希望と「もう長くはないのだろう」という恐怖からペンを取っていたのではないか。
記録の中には、「高雄(私)腰痛い、心配」の文字もあった。
自分のことはいつも後回しで、まっさきに家族を想うその心は変わらなかった。
一般病棟からホスピス(末期がん患者等の身体的、精神的苦痛を緩和することを目的とした病棟)へ移った。その日は、行きつけのうどん屋から大好きなかけうどんを無理を言って持ち帰り、病室で食べさせた。
といっても、弱々しくやせ細った腕と手で数本口にした程度だった。
それが最期の晩餐になるとも本人すら想像していなかっただろう。
翌日の朝、兄からの電話。
「急変したらしい」
病室に到着した時、ベッドで横になっている母の胸を兄がさすっていた。肺腺腫がんだったため呼吸が苦しいのだ。次第に意識は遠のき、目はうつろになっていった。
間もなくして、舌はのどに落ち、目は閉じられた。
よく耳は最期の最期まで聞こえているという。
医師から声をかけてあげてくださいと言われ、私は耳元でひたすら「ありがとう」と「ごめんね」を口にした。届いていたと思う。
母は、美空ひばりやテレサテンが好きで家でよくCDを聞いていた。
ホスピスでの最期の時は、私が「愛燦燦」「川の流れのように」「時の流れに身をまかせ」等をかけた、何度も何度も。
医師が死を宣した後もそれをBGMにして、親族、葬儀会社、お寺などへ電話連絡を行った。あくせくしながらも穏やかな時間だった。
通夜、葬儀、法要も滞りなく無事に執り行うことができた。
相続については、母の生前から兄とは話し合っていたことから、何の問題もなくスムーズに進めることができた。
兄と押入れなど母の遺品を整理しているとき、あるメモ書きを見つけた。
かぼそい字で親族の名前と数字が書いてある。
少し考えた後、葬儀に参列してほしい親族とその家族の人数だと推測できた。
私や兄が困らないようにと事前に記したのだと思う。
メモ書きの発見は葬儀後だったが、そこに記載されていた親族は全員参列してもらったのでホッと胸をなでおろした。
また、母は町内会費、お寺の護持会費、氏神様(地元の神社)への灯明料など、1年間に支払うべき金額と支払先を月ごとに整理しメモに記し残してくれてあった。
心配性な母らしい。
母は、大切なメモ書きを残してくれた。
闘病生活をつづったメモ
葬儀の参列予定者を記したメモ
年間の支払をまとめたメモ。
遺された私たち家族は、そのメモのおかげで母の想いを受け取ることができた。
相続という言葉には、元来、受け継ぐという意味があるが、どんなに多くの相続財産を承継できたとしても、相続争いを残してしてしまっては本末転倒。
想いを伝え、想いを受け取る。これが相続の始まりとするならば、私は行政書士として、生前からその想いを「つなぐ」役割を担っていこうと考え、現在も相続・遺言関係を主な業務としている。
私は、相続人間で揉めないように遺言をする、という考えはあまりない。
遺された家族が安心できるように、また、相続の手続きが楽になるように遺言をのこすという感覚を身につけてほしいと望んでいる。
遺言ではなくもちろんメモ書き程度でもなんでも良いが、
最も大切なのは、想いや面影をどう遺していくかということだと考えている。